引っ越しました

2009年10月05日

人にやさしく

やさしくありたいと思っている。
いつもいつでも誰にでも。

でも、そういうふうに動く事で、
茶化されたり、あしらわれたり、
歪めて悪意に捉えられたり、
打算があると勘ぐられたりする。
不要だとつっぱねられ、傷つく。

屈辱。バカバカしくなる。
親切にするだけ損な気がする。

悲しくて悔しくて恥ずかしくて、
そういうものに押し潰れないように、
やさしさとは正反対の感情で押し返そうとする。

やさしくされた時、そのやさしさを分かってるのに、
わざと、茶化したり、あしらったり、
歪めたり、勘ぐったり、つっぱねたりする。
自分がされた事と同じ事をやって人を傷つける。

たぶん、そうすることで、
傷ついた自分が少し浮かばれる気がするんだろう。
でも、浮かばれた試しなんて一度もない。
かえって自己嫌悪が増すばかりだ。

だからぐっと呑み込む。


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こんなことがあった


とある日の事、スーパーで買物してた。
こまごまとしたものを大量に買い込んだ。

レジに並んでいると後ろに女性が並んだ。
見るともなく見たらカゴの中の商品はほんの少し。

「ぼく多いんでお先にどうぞ」と順番を譲った。

「いえ、結構です」

「? 遠慮いりませんよ。どうぞどうぞ」

「遠慮じゃないですから。ホント、やめてください!」

そう言うと女性は別の列に並んでしまった。




さて、この鬱憤を、どう処理すればいいと思う?

たぶん相手が「女性」だという事がいけなかった。
でも、老若男女問わず、こんな事はよくやっている。
他愛ない親切心を、女性がどのように悪意に受け取り、
かくもバッサリ否定したのか、考えるだけでも吐き気がする。

悲しいし、悔しいし、恥ずかしい。
もともとはこれだ。でも、ちょっと気を抜くと、
「なぜ親切にして苦い思いをしなくちゃいけないんだ」
という考えが沸き、この女性を憎く思ってしまう。
憎しみを覚えては打ち消すという事を繰り返す。
なかなか心から消えてくれない。邪魔くさい心の淀み。



ずっと前のこと、ペプシ1本持ってレジに並んだ時、
前にいたおばちゃんが順番を譲ってくれた。うれしかった。
後ろの人は早く会計を済ませられてニコニコ、
前の人は待たせて気を使わなくて良くてニコニコ。
おお、なんという円滑! なんという合理性!
とか思って、それから、ぼくもそうするようになった。
ぼくがそうする事で、誰かもこのシステムに気づき、
次からそうするかもしれない。これは、いい連鎖。

でも、鬱憤を抱えた今、
以前のように気持ちよく譲れないのはもちろん、
ぼくが誰かに譲られる側になった場合、
おばちゃんの時ように素直に受け取れるかどうか分からない。
女性にされたように無碍につっぱねてしまうかもしれない。
傷つけてしまうかもしれない。故意に。これは、わるい連鎖。

「その人は関係ない、八つ当たりだ」って言うのは簡単。
そんな事は分かっているんだよ。
だからこそ、事後に自己嫌悪に陥るのだから。
それでも、刹那的に鬱憤をぶちまけたい衝動にかられる。
こんなすてばちな気持ちは、仕打ちを受けた者にしか分からないと思う。



こう考える事にした。

たぶん、女性も同じように、誰かに受けた仕打ち、
その鬱憤を刹那的に、誰彼かまわずぶちまけた。
それがたまたまぼくだった。

女性に仕打ちを与えた人も、誰かに受けた仕打ち、
その鬱憤を刹那的に、誰彼かまわずぶちまけた。
それがたまたま、その女性だった。

そういう連鎖だったのだと。

だから、ぐっと呑み込む。わるい連鎖はぼくで終わり。
そう考えれば、いくらか意義も感じられる。
押し潰されそうな鬱憤を憎しみの代わりにこの意義で押し返す。

半ば強引な理屈だけど、ひとまず決着ついた。
いくらかスッキリしたので、ブログに書いてみたよ。
みみっちい心の動きをさらすようで恥ずかしいのだけど。

生きていると色んな鬱憤がたまる。
悲しくて悔しくて恥ずかしくて押し潰されそうになる。
でも、それを怒りや憎しみで押し返したくない。
誰かに傷つけられる以上に、誰かを傷つけるのはイヤだ。

だから、考える。


posted by さくらい | 日常 | 更新情報をチェックする