古い木造アパートの共同トイレで男はうなっていた。
部屋に帰ろうとするも、新たな便意に襲われトイレに戻る。
そんな事を8回も繰り返した男は、ついにトイレに篭城したのだ。
頭上の小窓を見つめながら、次の便意を待ち受ける。
窓を打つ雨音が、いやおうなく時を感じさせ、
無駄な時間を過ごしている事を思い知らされた。
だが、男には希望があった。
幼い頃から胃腸が弱かった男は、経験からある法則を知っていた。
それはつまり、こういう場合、何度かの便意の後、
突然、一気に“成果が得られる”便意が訪れるという事。
すると、それまでの苦しみがウソのように消えてなくなるのだ。
その開放感は、なにものにもかえがたい。
まるで天使が微笑んでいるような安堵感に包まれる。
男はそれを密かにエンジェルタイムと呼んでいた。
しかし、思わせぶりなだけで、成果の薄い便意が続く。
いつ訪れるか分からない本物の便意をじっと待ち受けるしかないのだ。
この地獄のような時間を男は密かにデビルズタイムと呼んでいた。
このように、心の中にファンタジーを繰り広げ、
苦しみをごまかす事も、小さい頃から胃腸が弱かった男が、
あみだした知恵の1つだった。
うっ、きた!
…
ちっ フェイクか。
このフェイク、なんと22回目。
ケケケと笑うデビルのイメージが現れ、消えた。
男は目を閉じ、フシューと静かに息をととのえると、
また、頭上の小窓を見つめながら、次のデビルを待ち受けた。
風が強くなってきたのか、ガタガタと小窓が揺れ、
男の苛ついた気分を逆なでた。しかし男は揺るがない。
その眼差しは偉大な勇者のようにまっすぐだった。
和式便器にしゃがんで1時間になるだろうか。
さすがに足腰が痛くなってきた。
だが、勇者は姿勢を崩さない。
「一度も立ち上がらないままエンジェルタイムを迎える」
そんな崇高な誓いを立て、篭城を決意したのだ。
孤高な勇者の魂の聖戦は今正に佳境を…
コンコン
ふいにノックが鳴った。アパートの住人だろう。
「入ってまーす」
せっかく盛り上がってきたファンタジーに水をさされ、
男はめんどくさそうに答えた。
コンコン
「入ってますって!」
さっきより大きな声で答えた。
コンコン
「入ってると言ってるだろ!」
ますます大きな声で答えた。
シーン 静かになった。
やれやれ、やっとあきらめた…か…
うっ、きた!
…
ちっ またフェイクか。
23回目のフェイクに男が落胆したのを見計らったように…
コンコン
「こんのやろうッ!!」
男の苛立ちは頂点に達した。
心の中に止めていた感情が一気に言葉になって吹き出した。
男「こっちは地獄のデビルズタイムに耐えているのだッ!
エンジェルタイムを迎えるまで立ち上がらないという崇高な誓いにかけて、
この城は貴様には絶対に明け渡さな…ぃ…ぞ…」
うっ、きた!
…
…
…
ほわぁぁぁぁ…
勇者の表情がみるみる明るくなっていく。
24回目にして、ついに訪れたエンジェルタイム。
地獄の苦しみはウソのように立ち消え、
頭上の小窓から差し込んだ神々しい光の中から
何人もの天使がキラキラと舞い降りてくるイメージが広がった。
終わった…
ノックの主への怒りも苛立ちもウソのように消えていた。
今なら何もかもを許せる。そんな清らかな気持ち。
むしろ、怒鳴り散らした事を申し訳なく思えるほどだった。
まるで邪悪な呪いから解き放たれたような…
コンコン
おっと、いかん。勇者は慌てて立ち上がった。
足腰はガクガクだったが、一刻も早く彼も苦しみから解放してあげたかった。
よろめきながらも、やっとの事でノブに手をかけたところで気がついた。
激情にかられていたとはいえ、
デビルだの、エンジェルだの、崇高な誓いだのと
頭の中のファンタジーをつい言葉に出してしまったな…
コンコン
いやしかし、これ以上待たせるわけには…
気恥ずかしさを覚えながらも、勇者はドアをあけた。
ギィーー
ドアの向こうは、現実の世界。
トイレというプライベートな空間だからこそ
繰り広げる事ができたファンタジーは封印される…はずだった。
男「テヘヘ。す、すみません。お待たせし…ま…」
いない。 誰もいない。
男は慌てて廊下を見渡したが、人影はなかった。
さっきのノックから、全力で走ったとしても、
見えなくなるほど、遠ざかる事はできないはず。
トイレの周りの部屋の住人だとしても、
ドアが締まる音くらいはするはずだ。
これは、いったい…
男はファンタジーの続きにいるような気がした。
思えばエンジェルタイムを迎えられたのは怒鳴る際、力んだおかげ…
見えざるノックの主に、心の中で感謝を伝え、勇者は戦場を後にした。
勇者が自分の部屋に入りドアを閉めた、ちょうどその時、
トイレのドアにかかった『使用中』の札が、隙間風にゆれた。
コンコン
まぁ、経験した事ないから・・・
勇者は次に何に怒りをぶつけて、力むのでしょう? 心配です。