引っ越しました

2010年12月29日

ショートショート『悪いお年を』

うぷっ

電車から飛び出した女は、
そのままの勢いで時刻表のポールにへばりつき、
なんとか吐き気をこらえた。

 呑みすぎた…
 忘年会なんて行くんじゃなかった…
 早くシャワー浴びたい…

歳に見合わないかわいいハンカチで
口を押さえながら、女はさらに思った。

 これだけふらついてるんだから、
 肩を貸してくれるイケメンの一人や二人、
 いても良さそうなもんなのに…

肩を貸すどころか、避けるように、
素通りしてゆく人波を虚ろな目で睨む。

その眼光の鋭さには、忘年会の帰り際、意中のイケメンが、
別の女を送っていった事へのやつあたりも含まれていた。

 「つい先日、引っ越したんです。方向同じになりましたね」
 なんて言ってたから、てっきり送ってくれると思っていたのに、
 なんで、反対方向の女を送るのよ…

別れ際の「良いお年を」というさわやかな声を
忌々しく思い出し、女は眉間のしわを深くさせた。

やがてホームにポツンと一人とりのこされた女は、
酒臭いため息をひとつ吐き、やっと歩き出した。

よろめきながら改札を抜け、
人気のない夜道をアパートへと歩いてゆく。

 寒い…足がもつれる…ヒールのかかと、へし折りたい…
 っていうか、駅からアパートまで遠い…うぷっ

3度もの吐き気に耐え、なんとか一人暮らしのアパートに辿りついた。
しかし、ここからがまた一苦労、部屋は4階、エレベーターなし。
冷たい壁を支えに、どうにかこうにか階段をのぼってゆく。

 あと少しで部屋… あと少しでシャワー…

ゼイゼイと息をきらしながら、やっと階段をのぼりきった。
鍵を取り出すため、バッグの口を開きながら進む。
ところが、部屋まで、あと一歩というところで…

グキッ。足をくじいた。

女は「ギャワッ」と奇声をあげ、前へ倒れこみ、
反射的にドアレバーにしがみついた。

ガチャッ

 あれ、開いた… 鍵するの忘れてたっけ…
 あ、ヒールのかかと折れた!
 …ああ〜! もういい! とにかくシャワー!

女は部屋の中へなだれこむと、バッグをドサッと落とした。
開けっぱなしの口から中身が派手に飛び散るも、女は意に介さない。
灯りも点けず、脱いだ服を点々と残しバスルームへと向かう。

ガツッ

バスルームの段差で右足のつま先をぶつけた。

「ギャワッ」

素っ裸で、うずくまる女。
右手でつまさきをかばいながらも、
左手をバスルームの灯りのスイッチへ伸ばす…
が、うずくまった女からは遠く届かない。

 もういい! 灯りなんて!

女は半ば、やけになって、
這うようにバスルームへなだれこんだ。

 もぉ〜、イヤ! こんなアパート!
 駅から遠いし、エレベーターないし、段差あるし!
 絶対、引っ越す! 明日、不動産屋行く。絶対行く!
 あの不動産屋の担当、イケメンだったし!

 ……担当?

酔いで朦朧とした頭がやっと回りだした。
段差はともかく、駅から遠くエレベーターがない事が
常々、不満だった女は、すでに1ヶ月前に不動産屋を訪れていた。
イケメン担当に案内された物件の中から1つを決め、
引っ越したのが……2週間前!

女は急激に酔いが冷め、血の気がひいていくのを感じた。

3年も住んでいた慣れに、酔って朦朧とした頭も手伝って、
ついつい引っ越し前のこの部屋へ帰ってきてしまったのだ。

つまりこの部屋は、もう女の部屋ではない。

 ま、まずい。早く出ないと!
 まさか2週間で次の人に貸すわけないとは思うけど…
 あのイケメン担当め〜! 鍵しわすれるなんて、もぉ〜!

女はさっきぶつけた右足の痛みも忘れ、慌ててバスルームを飛び出した。

ガツッ

慌てすぎて左足のつま先を段差にぶつけた。

「ギャワッ」

素っ裸で、うずくまる女。
でも、こうしてはいられない。

左手でつまさきをかばいながらも、
右手を床に転がった下着にのばした。

ハックショイ

この寒い中、いつまでも素っ裸でいた女は
くしゃみをし、反動で鼻水が長く垂れた。

と、その時だ。

ガチャッと玄関のドアが開き、パッと灯りが点いた。

 っ!

バスルームの前の廊下は玄関まで一直線。
来訪者はすでにこの姿を見ている事だろう。取り繕いようがない。

女は、ゆっくりと視線を上げていった。

下着…

点々と続くだらしなく脱いだ服…

派手に散らばったバッグの中身…

かかとの折れたヒール…

すらりとした長い足…

痩せマッチョな上半身…

その上にのった整った顔に女は見覚えがあった。

「なに… してるんですか…」

そのさわやかな声を、女はつい数十分前に聞いていた。


−−良いお年を


悪夢。それは男にとっても同じ事だった。

両者、言葉を失い、凍り付いた。

しばらく続いた静寂を破ったのは女の方だった。


うぷっ





posted by さくらい | 短編 | 更新情報をチェックする
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