引っ越しました

2011年03月31日

ショートショート『ウロボロス』


昼下がり、スーパーからの帰り道、
加奈子と、その息子裕一は公園の脇道にさしかかった。

「ねぇ、あのおじいさんは、どうして泣いてるの?」

ふいに裕一が公園のベンチを指差して言った。
加奈子がそちらに視線を移すも、ベンチには誰もいない。

「裕ちゃん、何言ってるの? 誰もいないでしょ」

「えー、いるよう。ママ見えないの?」

加奈子は首をかしげながらしゃがみ改めて尋ねた。
「ねぇ、裕ちゃん、どんなおじいさんなの?」

裕一はベンチの方から目をはなすことなく答えた。
「あのね、白いおヒゲでね白い服でね… 泣いてるの… あ、こっち見たよ」

ギョッとしてベンチの方へ振り返る加奈子。
しかし、やはりベンチには誰もいなかった…

なんだか、気味が悪くなった加奈子は、
裕一の手をひいて、そそくさとその場を去った。


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その日の晩、帰ってきた夫の健一を迎えるや否や、
公園での出来事を、事こまかに話しはじめる加奈子。
裕一はすでに子ども部屋で眠っている。

「裕ちゃんったら、いるって言って聞かないのよ。
 私もう、気味が悪くって…」

「そうか…」伏せ目がちに返事をする健一。

「ちょっと、聞いてる?」

「あぁ… 聞いてるよ。もちろん…」

「もう、いつも、こうなんだから…」

加奈子がため息をつくと、健一は伏せたままの目を逸らした。

「あ〜、裕ちゃん、大丈夫かなァ。心配だなァ。
 ねぇ、お医者さまに診てもらった方がいいと思う?」

そう加奈子が尋ねた途端、健一はビクッと肩をゆらした。
唇をかみしめ、閉じた目からは、ぽたぽたと涙が落ちる。

「ちょ、ちょっと…どうしたの? 会社で何かあった?」

健一はあわてて涙を拭うと、力ない作り笑いを妻に見せた。

「いや… ちょっと疲れてるみたいだ。もう寝るよ」
それだけ言うと健一はさっさと寝室へ行ってしまった。



次の日の晩、仕事を終えた健一は、実家にいた。

昨晩の加奈子の様子を、両親に詳しく伝えた健一は、
最後に、こう付け加えた。

「加奈子は… もうだめかもしれない…」

両親は黙ったまま、顔を見合わせた。
健一が暗い顔で訪ねてくるのは、もう何度目だろう。

母親の幸恵はうろたえるばかり。
父親の浩一は覚悟を決めたように尋ねた。

「医者には、診せたのか」

「まだだよ。それだけは避けたかったが…
 もう連れて行くしかないのかもしれない」

「え、連れて…いくの?」あわてて確かめる幸恵。

「しかたないだろう! 世間体なんて気にしてる場合じゃないんだ!
 …加奈子は、2年前のあの事故で亡くした裕一が見えるって言ってるんだ。
 毎日毎日、“今日は裕ちゃんがああしたこうした”って…嬉しそうに…」

健一は声を詰まらせた。伏せた目から涙がこぼれる。

うろたえる幸恵をよそに、
浩一は、努めて冷静な口調で息子に告げた。

「そうだな。医者に診てもらうべきだろうな。
 だが、いきなり加奈子さんを連れて行くより、
 先にお前だけで行って症状を伝えた方がいいだろう。
 俺の同級生に精神科医をしてる仁谷という男がいる。
 信用できる男だ。連絡をしておくから明日、訪ねてみるといい。
 気をしっかり持つんだぞ、健一」

「そうさせてもらうよ… ありがとう父さん」

健一はほんの少し表情を和らげ、帰っていった。



次の日、父親にすすめられた精神病院を訪ねた健一は、
待たされる事なく、診察室に通された。

「はじめまして。仁谷です。どうぞお掛けください」
健一は仁谷の前に置かれた椅子に腰掛けた。

「浩ちゃん…あ、いや、お父さんからだいたいの話は聞いてますが、
 健一さんの口から、もう一度、詳しくお話しいただけますか」

仁谷が柔らかい口調で促すと、健一はゆっくりと話しだした。
「2年前の夏、家族3人で遊園地へ出かけたんです。
 その帰りの高速道路で、交通事故に巻き込まれて…
 私と妻の加奈子はなんとか助かったのですが、息子の裕一は…」

「それはお気の毒に。さぞお辛かったでしょう」

「それからというもの加奈子は、
 ただ呆然と裕一の遺影の前に座っている毎日でした。
 夜になっても灯りさえ点けず、声をかけても返事すらせず…」

「なるほど、そうですか。続けてください」

「3ヶ月ほど経ったある日、会社から帰ると加奈子が明るく出迎えてくれたんです。
 やっと立ち直ってくれたのかと喜んだのも束の間、
 『今日、裕一が嫌いだったニンジンを残さず食べたのよ』って…嬉しそうに…」

「ふむふむ。それで?」

「その後も、ずっとそうです。
 会社から帰るたびに、加奈子は裕一の“今日のできごと”を話すのです。
 いるはずのない裕一の姿を見て、いるはずのない裕一の声を聞いて、
 いるはずのない裕一のために、ごはんを作って…」

「なるほど。それはあなたも、さぞご苦労なさった事でしょうな」

「いや、私はいいんです。いくら大変だろうと、
 これが裕一の死を受け入れるために必要なプロセスならば、
 支えてゆく覚悟でした。しかし、一昨日、加奈子は言ったのです。
 『裕一がいるはずのない人が見えると言っている』と。
 そして私に尋ねるのです。『医者に診せた方がいいか』…と」
健一は肩を震わせ、泣き崩れた。

「そうですか、そうですか。それは大変でしたね。お察しします」

仁谷は、沈んだ面持ちを浮かべながら軽く頷き、
手に持ったペンをカルテの上でクルクルと踊らせた。
そして健一が落ち着きを取り戻したのを見計らい、こう告げた。
「お話、よく分かりました。今日は、ひとまずお帰りください」

「いつ連れて来ればいいでしょうか。加奈子はもう…」

「また近いうちに、ご連絡いたします」

「そう…ですか… では、失礼します」

診察室から立ち去る健一に、仁谷は「お大事に」と声をかけた。



少しだけ間を開けて、
仁谷は隣の部屋に待たせていた人物を呼んだ。
「帰ったよ。出てきてもいいぞ」

「世話になったなぁ。で、どうだった…健一は…」
入ってきた浩一は、さっきまで息子が座っていた椅子に
ゆっくりと腰かけながら尋ねた。

仁谷は少し間を置いて、質問で返した。
「診察の様子は、見ていたか?」

「あ…ああ。心配でな。ドアの隙間から一部始終」

「そうか… やはり、見えていたか…」

仁谷は、先ほど書いたカルテをサッと手にとり
一通り眺めると、言いにくそうに答えた。
「まぁ、その…聞いていた通りだったよ…良いとは言えない状態だな」

「そうか…」口を結んで、顔を伏せる浩一。

しばらくの沈黙の後、仁谷が言った。
「なぁ、浩ちゃん、…ひとまず、一緒に住んじゃどうだい。
 その方が、浩ちゃんも安心だろう?」

「そうしたい所だが… 健一のやつが納得するかどうか…
 なんせ、あいつの中では、加奈子さんはまだ生きている事に
 なっているんだからなァ…」

「まぁ…嫁さんとお子さんを一度に亡くしたんだ…無理もないが」

「いや…それは違う。あぁ、いや…間違ってはいないんだが…」

「ん? どういう事だ。
 『2年前の事故で亡くして、いないはずの裕一くんを、
 同じ事故で亡くして、いないはずの加奈子さんが心配している、
 そう息子さんが言い出した』昨日の電話ではそう聞いているが。
 何か、間違っているのか?」

「いや、間違ってはいない。間違ってはいないんだが…

「ん?」

「事故で亡くしたのは加奈子さんだけだ」

「なに? …じゃあ、裕一くんは、生きているのか?」

「いや、その… 健一と加奈子さんの間には… 子どもはいなかったんだよ」

「……じゃあ、裕一くんというのは」

「ああ、健一が作り出した…想像の産物だ… 最初からいない」

「……そうだったのか」

「ああ… 俺はあいつが不憫でならんよ」

「……そうだな …ああ、わかるよ」
仁谷は白いあごヒゲをなでながら、窓の外を眺めた。

「……奥さんは その…幸恵さんはどうしてるんだい? さぞ心配されてると思うが」

「ああ、あれもまいってるよ。一気に老け込んじまった。はは…
 今日も来るはずだったが家で寝込んでる。早く帰ってやらにゃ…」

「……そうか。まぁ…よろしく伝えておいてくれよ」

「ああ」

「浩ちゃんも…その…奥さんや息子さんの事、心配だろうが、
 あまり気を落とすなよ。きっと、なんとかなる。
 また、何かあったら連絡してくれ。できる限りの事はするから」

「ああ、助かるよ。悪かったな。いろいろと」

診察室から出てゆく浩一に、仁谷は何も声をかけられなかった。



ひとりになった仁谷は、大きなため息をつくと、
ずっと手にしていたものをクシャクシャと丸め、ゴミ箱に捨てた。

それは確かにカルテだったが、意味のある事は何一つ書かれていなかった。
ペンを踊らせたのは、隣室から覗いているであろう旧友の為にうった芝居。

1時間前、仁谷は、健一を迎え入れ、椅子に座らせ、話を聞いた。
だが、その間中、この診察室には仁谷以外、誰もいなかった。


浩一に、息子はいない。

2年前に先立たれた幸恵さんとの間に、子どもはいなかった。


正午、休診時間になるや否や、
仁谷はいたたまれずに、白衣のまま職場を後にした。
そして不憫な旧友を想いながら、ただ宛もなく街を歩いた。

 最初に異変に気付いたのは、幸恵さんの死から3ヶ月後くらいだったか。
 突然、私を訪ねてきたあいつが、奥さんとの“今日のできごと”を
 照れくさそうに話しはじめて…

 それから、幾度となく会ったが、
 あいつの中の虚構の世界は確実に広がっていった…
 
大通りには人が溢れていた。各々に違う理由で作られた無数の笑顔。
仁谷はいわれのない虚無感に襲われ、雑踏を避け裏通りへと逃れた。

 もともと夫婦仲は良かったようだが…
 そんなに外で奥さんの話をするような男ではなかった。

 おそらく私に話す事で、精神世界の裏打ちをしていていたのだろう…
 それに気付いていながら、私は…どうする事もできなかった…

 そして昨日の電話…
 まさか、あいつの世界に息子が生まれていたとは…

やがて行き当たった公園のベンチに、仁谷は腰を落ちつけた。

 虚構の息子一家に起きたできごとはあいつ自身の投影なのだろう。
 存在しない息子に、自分自身を重ね、案じ、哀れみ、途方に暮れて…


「ねぇ、あのおじいさんは、どうして泣いてるの?」


ふいに背後から声がした。 幼い男の子の声。

仁谷は、いつのまにか流れていた涙に気付き、
あわてて拭うと、声の聞こえた方へと振り返った。

しかし



そこには誰もいなかった。



posted by さくらい | Comment(5) | 短編 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なんか、泣けた。。。(from twitter)
Posted by gotoyu07 at 2011年04月01日 19:24
読みました!最初は、あ、やっぱり?と思ったけど、え?え?えぇ?!となりました。面白かったです(*^o^*)♪ こういう感じのお話、好きです(o^^o) (from twitter)
Posted by yukimin55 at 2011年04月01日 19:25
このお話を読んでメビウスの輪が思い浮かびました。全て繋がっていて終わりがない、表を歩いているつもりがいつの間にか裏を歩いていた…と、不思議でちょっとホラーのようにうすら寒く、切ない気持ちになりました。(from twitter)
Posted by nblseflus at 2011年04月01日 19:26
居たはずの人たちが、気づくとすっと消えている、消えてゆく感じ。切ないですね。面白かった。(@tsukinowakun on twitter)
Posted by ショウ at 2011年04月04日 07:51
あの世がこの世でこの世があの世と思っています。読ませていただいて人生は風のようなものと。人が生きるということは進行形で追いかけてもその場から居なくなるような瞬間なのだと。魔法のようなものだと。…を小説で読ませてもらった気がします。
Posted by 永田有実 at 2011年04月04日 09:07
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