引っ越しました

2011年10月22日

日本人の論理力

ちょい前に『論理的ってなぁに』って記事を書いたけど、
ぼくは何でもかんでも「論理的な主張」が良いとは思わない。

だって、無粋なんだもの。(・_・)

例えば、俳句。
五・七・五の中に四季折々のわびさびを内包する世界最短の定型詩。

当然、そんな中に「なぜならば」に続く理由がクドクド入ったら、
五・七・五の文字数に収まらないし、何よりうるさい。じゃまくさい。

俳句は詠んだ人の言葉の中ではなく、読んだ人の心の中で展開される。
読む人の情緒に委ねる寛容さ、そうした余地を十分に残す心遣い。
そこに良さがあると思うんだよね。

では、俳句を詠むのに「論理」は要らないのか、と言えば、
もちろん要る。むしろ十二分に必要だと思う。
なぜならば、五・七・五という短い文字数で物事を伝えるには、
その本質を見極めなくてはならならず、そのためには、
論理的思考で物事を捉える作業が必要だから。

芭蕉は詠んだ。


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閑さや 岩にしみ入る 蝉の声


彼はしみじみ考えた事だろう。

今、自分が感じた「わびさび」は何をもってわびさびと言えるのか…
それを五・七・五に収めるには、何を本質と見定め伝えれば良いか…

近くには清流がさらさらと流れていたかもしれない、
木立が風に吹かれざわざわと揺れていたかもしれない。

とりまく情景の中で彼が「これぞ本質」と見極めたのが、なんと蝉。
「しずけさ」とは相反する、とも言える蝉の声だ。
それすらも、黙して座する岩々にしみこんでゆくように感じる…
そう表現する事で、「しずけさ」をより引き立てたわけだ。


ぃよっ! これぞ粋ッ!m9(;`Д´)ドーン


つまり、日本人は、論理的 “思考” に長けながらも、
論理的 “主張” を 「あえて」 してこなかったのではないか。



なぜ日本人は論理力が弱いのか。

知識詰め込み優先の教育の弊害とかイロイロ言われているけれど、
ぼくは、この「沈黙を美徳」とする日本人特有の意識にあると思う。


汲み取ったり、推し量ったり、行間を読んだり、
こういう回りくどい伝達が好きなんよ(´ー` ) 日本人。

これはこれで素晴らしい文化と思う。


しかし、


だからこそ成り立つ美徳を、都合良く歪めて捉えサボった結果、

「主張しなぁ〜い、それ以前に考えてなぁ〜い、のほほ〜ん」

「なんとなくぅ〜、どうしてもぉ〜、べっつにぃ〜、へらへら」


…こんな、あきれた体たらくを招いちゃったんじゃないかしら。

これでは、俳人どころか、廃人だ! よし! うまいこと言った!(°∀°人)

主張はともかく思考まで論理的じゃないなんてゾンビと同じだ。

さぁ、よく、見て、考えて!m9(;`Д´)

あなたが、感じ、思った事には、必ず理由があるはず!




posted by さくらい | 疑問 | 更新情報をチェックする
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