引っ越しました

2014年07月03日

情けは人の為ならずロジック

情けは人の為ならず という教えがある。

これは、要らぬ情けをかける事はその人の為にならない という事…

ではなく ※勘違いしてる人が多いので念のため…

人に情けをかける事は、巡り巡ってやがて自分に返ってくる。
だから人には親切にしておきなさいよ
 という教えだ。

なんだか、ずいぶん打算的。
自分のメリットがある場合にしか、他人にメリットを与えない。
そんな、ある意味、利己的で狭量な印象を受けかねない。
(まぁ世間なんて、そもそもそういうものだけどね…)

でも、ぼくは「情けは人の為ならず」は、
そんな浅い教えじゃないと思うんだよね。

人の為に何かしらの行動をする場合、
その理由が、そのまんま「人の為」では不十分だと思うんだ。
それでは、情けをかけて “あげる”、何かして “やる” という
上から目線な立ち位置からの行動になってしまう。
“お前のためにしてやったのに”という理屈が成り立ってしまい、
行動によって生じた結果が悪い時、無駄に腹が立ったりしちゃう。
道理の通じない相手だと「頼んでねぇよ!」などと言われかねず、
ますます不毛なフラストレーションがたまっちゃう。

なので、人の為に行動する理由を、変換・整理・調整し、
自分の中で、いかに「自分の為」だと設定できるか、
だと思うんだ。その上で「人の為」に行動するべきだと。

自分の中でそうした決着が事前についていれば、結果が悪くても、
もっと言えば、多少の損をしたとしても、たいてい許容範囲に収まる。

「善い行い(人の為)をしたのに、なんで自分がこんな目に!」
…などと腹を立てたり、悔いを覚えたり、ストレスを感じたりしないで済む。
「自分がしたくてやった事だからなぁ…」「自分で決めて、した事だからなぁ…」
「まぁ、しかたないかぁ…(´〜`;)」
なんつってね。気を納められる。

これはこれで打算的だが、メリットを得るためだけのギトギトした打算じゃなく、
リスク回避、自己防衛、デメリットを避けるための打算だ。かわいいもんだ。

よって「情けは人の為ならず」のぼく解釈は、

人の為に行動する時は、それによって生じうるリスクを回避するために、
事前に自分の中で準備・覚悟をしておきなさいよ
 って事だと思うんだよ。
その方法として “自分の為と思い込む” って有効ですよ〜、みたいな。

“巡り巡ってやがて自分に返ってくる”なんてのはサ、方便だよ。
まず返ってこねぇわ。(笑)そんなもん。(´〜`;)ゞ
分かってる。分かってて仮定するんだよ。自分の為っていうメリットを。

ハイ、というわけで、

情けは人の為ならずロジック

これを自分の中でいかに自然な形で成立させるか。
いかに自分を納得させられる理屈をこねられるか。

人の為に何かしようと思い立った時、
これが必要になるんだよね。ぼくはね。


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こんな事があったんよ

最近、とある "集まり" に参加していて。

ちょい事情があって、詳しくは言えないのだけど、
年齢も性別も経歴も様々な人達が、わりと閉鎖的環境下で、
1つの目的意識を共有する…的なさ。そういう集まり。

イメージとしては塾とか学校とか会社とかバイト先とかそんなのね。

んで

参加者の内の1人の男性が、彼自身がとった、ある行動により、
集まりの中で浮いてしまった。“敬遠される存在” になってしまった。
「理解できない」「怖い」「近寄り難い」「関わりたくない」
まぁ…言ってしまえば、そういう緊張・緊迫した空気だね。
それが集まりの中で、だいぶ浸透してしまってね。
当の本人は憮然とした態度。歩み寄る姿勢も感じられない。
まぁ〜かんばしくない状況だね。気になっていた。

集まりの中には「関わらない方が彼の為でもあるよ」
という人も少なからずいた。それはそれで一つの考え方だ。
考え方っていうか、やり方かな。処世術的な。
良く捉えれば、或いは建前としては、彼への気配り、意志尊重。
そうでなければ、単に面倒事を避ける為の正当化(´〜`;)
まあ、どうであれ、別に悪くないし間違っちゃいないと思う。

でも、そんなふうに考える人も、
もし可能なら円満な関係を築けるに越した事はない
という事には異論ないと思うんだ。
望むと望まざると、しばらくこの集まりは続くのだから。
心穏やかに、過ごしたいじゃないの。

決して積極的ではないけれど
(ぼくだって不慣れ。いっぱいいっぱいなのでね)
いずれは、なんとかならないかな〜。
あわよくば、なんとかできないかな〜。
なーんて考えてた矢先に、彼の方から声をかけてきた(!)
集まりの活動が終わり、ほとんどの人が帰った後、
ぼく一人になった時を見計らったように。

そして、堰を切ったように、いろいろ話し始めたんだよ。
ぼくはそれをフムフムと聞いた。
「雨が止むまでの暇つぶし」っていうイカニモな口実が
あったのもラッキーだったね。流れとして自然なので。
たぶんお互い、止まない事は承知の上なんだけどさ(笑)

人は聞いてもらってばかりだと落ち着かなくなる経験則。
よって、こちらからも話をした。ある程度、腹を割って。
“おしゃべり” だね。会話。フリートーク。
だからって、ほぼ初対面。初めて口を聞いた相手だ。
そんなスンナリ楽しめやしないよ(´〜`;)正直。当然。

でもね、そこはホレ、

物事は楽しもうと思えばどんな事も楽しめるものよ。
もちろん楽しもうと固く決心することが大事よ。


アン・シャーリーの教えに従い、固く決心したんだね。
楽しもうと。おかげでそれなりに楽しめた。


わざわざ言うのもはばかられる事だけど、
ぼくは別に聖人君子じゃないんよ(´〜`;)とんでもない…

参加者の多くがそうであるように、ぼくだってゴタブンにもれず、
早く帰りてぇ〜、面倒ぉ〜 という気持ち、あるわ。正直ね。
それでも、そんな気持ちを抑え、おくびにも出さず、
彼との会話を楽しむ決心をし、数時間を費やした理由は、
浮いていると自覚しつつも声かけてきてくれた彼の勇気だよね。
わりと思い切りが必要なチャレンジだと思うんだよ。
それを汲んだ。そうと知りつつ無下にして平気でいられるほど、
ぼくの心はドライにはできていないんだ。善くも悪くも。

あと…これはとりかえしがつかない重大な局面という判断もあった。
ここで、もし、ぼくまで突っぱねたら、彼は本当に孤立する。
瀬戸際。正念場。ギリギリ崖っぷち。そう思ったんだよ。
まぁ…話すだけで、楽になる事ってわりとあるし、
自分を理解してくれる人が1人でもいるって事が
どれだけ心の安定に繋がるかって事も心得てるからね。
の為に、一肌脱いじゃろ。そう思った。

ハイ、やっとでました!

キーワード「の為」 前置きなげぇ…

そうなると、前述の通り、必要になるのは、

情けは人の為ならずロジック だ。


今回の場合の巡り巡って自分の為になる…そのロジックは実にシンプル。
「彼もぼくを取り巻く環境の一部だから」だ。

例えば

真っ赤な壁紙の部屋で暮らしていたら気が休まらない。
真っ赤な壁紙は、ぼくにとって心地よくないんだ。
となれば考えるのは違う色の壁紙に変えるって事だよね。
壁紙という環境要素をぼくが心地よく過ごせる色に変えるワケだ。

それと同じで、人間だってぼくを取り巻く環境の一部だ。
むしろ人間は自分の心に大きな影響を与える環境要素だ。
周囲の人の心が荒んでいれば、ぼくの心の荒む。
周囲の人の心が落ち着いていなければ、ぼくの心も落ち着かない。
だから、ぼくの周囲の人もなるべく心穏やかでいてほしい。
ただし相手は人間。壁紙を変えるように簡単にはいかないので、
いきなり改善を要求するなんて事はできない。
…にしたって、自分を取り巻く環境要素について、
知っておく事は改善への布石くらいにはなると思うんだよね。

今回、数時間費やし話を聞いた。とりとめもない、たあいない話だよ。
それでも、少なからず理解が深まり彼に対する印象を和らげる事ができた。
問題の件についても彼の言い分をよーく聞いた。
正直「いや、それは違うだろ」とつっこみたくなる事も多々あった。
でも今回は、なるべく受け入れる事に努めたよ。

彼はしきりに自分の事を「短気だ、すぐカッとなる」と言っていた。
「こんな事もあった〜」「あんな事もあった〜」と事例も次々とご披露。
まるで… そう、 “自分の取り扱い説明書” のようだったな。
「世間は君が望む取り扱い説明書通りに君を取り扱わない事もあるんだぜ」
と思いつつも、まぁ、今回はそういうつっこみはナシで。
ともすると、調子づいて武勇伝のようになってしまいがちなので、
「そーゆーつもりで聞いてねーからヨロ」ってのは態度で示しつつ。
さすがに、そんなのは聞いてらんないので。バカバカしくて。


とにかく

例えば、今後、彼が何かしらのキッカケでまた突飛な行動をして、
周囲の人が、さらなる不安や緊張を覚えてしまったとしても、
今回培った理解によって、ぼくは、ある程度、許容できるだろう。
必要以上の不安や緊張を覚えなくて済む。それだけでも価値がある。

そして、"周囲の人"も、またぼくにとって “取り巻く環境要素” だ。
どうしてもって時は、ぼくが彼について理解した事を話す事で、
不安や緊張を多少なりとも和らげる事ができるかもしれない。
ぼくのように許容できる範囲が広がれば、それで済む話かも。
それはそれで価値があると思う。

こうした互いの小さな配慮が積み重なってゆけば、"巡り巡って"
自分が気持ちよく過ごせる集まり(環境)になるんじゃないだろうか。




ハイ、どうでしょ?

ある程度、説得力のあるメリットじゃない?
少なくとも、ぼく自身はこの理屈なら納得できる。

ってワケで、
今回の “情けは人の為ならずロジック” はめでたく成立したワケだ。

「価値がある」何度も何度も重ねたね。
期待した。見込んだ。そうなる事を自分で望んだ。
これは、紛う事なく自分の意志。自分の選択。自分の為だ。
だから、もし結果が悪くても、残念に思う事はあっても腹は立たない。
少なくとも「善い事をしたのに、なんで自分がこんな目に!」なんて
「だったら最初からやるなよ」で、サクッと論破されそうな
見苦しい不平不満・後悔を覚えなくて済む。

ザ・リスク回避。( ・`ω・´)b+


ハイ、おしまい。


posted by さくらい | 日常 | 更新情報をチェックする