こういうのあるでしょ。
普段穏やかな人に、黒い部分を垣間見て、見損なう。
普段荒っぽい人に、清い部分を垣間見て、見直す。
善くも悪くも「本性」が見えた瞬間。
垣間見える本性が 真の姿。
普段はそれを隠した 偽りの姿。
でも
ぼくはおかしいと思うんだよね。これ。(・∈・)
だって、いかにも本性だけで、その人を決めつけてる感じじゃん?
たかが本性で。
例えば、
すごくオシャレで憧れてた人が田舎の出身と知った途端、
「なぁんだ。田舎者の背伸びか」なんて判定して下に見る。
これと同じで理不尽な決めつけだと思うんだ。
何をもって「人間の真価」とするのか。
そういう話。
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そもそも
本性なんてモノは「こういう自分でありたい」というような
その人自身の「意志」や、それを反映した「行動」によって
培われたモノ、身に付いたモノじゃない。
善くも悪くも元々あるモノ。本人が求めたモノじゃない。
だとしたら、本人にとっては
垣間見える本性が 偽りの姿。
普段はそれを隠した 真の姿。
と言えるかもしれない。
さて
このあたりを、もうちょい深く考えるにあたって、まず、
黒い部分が垣間見えた穏やかな人 と 清い部分が垣間見えた荒っぽい人
この二者では、根本的に違うって事にまず注意しなくてはならない。
前者は「こういう自分であろう」という意志を行動に反映させる
日々のたゆまぬ努力によって “穏やかな人” を保っている人だ。
一方、普段 "荒っぽい人" とは、そうした努力をしてない人だ。
嫌がり恐がり面倒臭がり開き直り逃げてきた人が結果的にそうなったというだけ。
そこに「こういう自分であろう」などという意志はない。
さっきのオシャレの例で言うとわかりやすい。
オシャレな人は化粧や髪型や洋服について勉強し、
流行に気を配り、センスを磨く努力をしたが故にオシャレなのだ。
これをサボッてる人が結果的にヤボッたいというだけ。
そういう事だ。ああ、しょーもない。
普段荒っぽい人に垣間みた清い部分なんてものは、
普段荒っぽいから、そのギャップで清い部分が浮き立っている…
というだけの事。そんなもんに価値なんてないよ。
清い部分なんて別に穏やかな人にだってあるからね。
黒い部分もまた然り。誰でもどっちも持っている。ザ・人間。
というわけで、
考えるべきなのは、人としての意志が反映されている
“普段穏やかな人の本性が垣間見える瞬間” だね。
それは、例えば…
・ピンチの時。
・パニクってる時。
・重大な責任を負った時。
・危機・災難がふりかかった時。
・大金が舞い込んだ時。
・ごちそうを目の前にした時。
・お酒を飲んで酔っぱらった時。
・好きな異性を前に舞い上がった時。
人間の二大行動原理と言われる「痛の回避」と「快の追求」。
性悪説とまでは言わないが、これはあらがいがたい 本能 だ。
つまり「本性が垣間見える」とは「本能がむきだしになった状態」と言える。
醜く、やらしく、見苦しく、汚ならしい姿をさらけだす瞬間…
感情的になり、声を荒げたり、欲望に溺れたり、時には暴力をふるったり。
それによって愛する人達・愛してくれる人達を
傷つけ、悲しませ、迷惑をかけ、心配をかけ…
「こんなはずじゃなかったのに… 自分って奴は… あぁ〜…」_| ̄|○ 自己嫌悪
こうして、人は対処法を考えるんだな。
二度と同じ過ちを繰り返さないよう、
どう本能をコントロールするかという事に頭を使う。
「もう誰も傷つけたくない。悲しませたくない。迷惑も心配もかけたくない。
そのためには… どういう自分であるべきか」
ってね。
自己嫌悪と真正面から向き合うキツい作業を経て、あるべき自分を設計。
出た結論を少しずつ行動に反映する。習慣化するまでコツコツと。
やっと身に付いたと思ったら、また別のケースで本能むきだし、自己嫌悪…
このケースにはどう対処したらいいのか…また考え、行動に反映。
この繰り返しで、人は成長していくと思うんだ。
どんな事態にぶちあたっても本能をコントロールできる対処法を心得ている。
これがいわゆる度量(人間の大きさ・心の広さ・懐の深さ)。
本能のままに生きる動物とは違う、人間としての真価 。
と
このように現時点のぼくは整理している。
ここまでが前提。(=_=;) 長文スマヌ...
今回の記事で言いたかった事は、ここから。
本性が、本人が求める「あるべき自分」でないがゆえに
本人にとっては、
垣間見える本性は 偽りの姿。
普段がそれを隠した 真の姿。
であったとしても、周囲の人間からは、
垣間見える本性が 真の姿。
普段はそれを隠した 偽りの姿。
と判定されてしまう。
そもそも "隠してる" 時点で我々を欺いてる!
それは偽りではないのかァ!!m9(;`Д´)
なんつってね。ごもっとも。確かにそうだわ。
でも、それを安易に受け入れると「こうありたい」と日々努力してる
自分がバカみたいに思えてくる負のスパイラルに陥ってしまう。
なぜなら、どれだけがんばっても、
それは 偽る行為 でしかないのだから。
がんばれば、がんばるほど、偽りの上塗り。
たとえ周囲に評価されたとしても、それは結局、偽りの自分じゃないか…
空しくなって放り出してしまえば、結局、本性が露呈する。
それを見た周囲はこう言うのさ。「ほぉら、やっぱりね(嘲笑)」
なんだよもー! 絶望ウワーーーン!!ヽ(`Д´。)ノ
だったら、いったいどうしろってんだよー!ヽ(`Д´。)ノ
こんなにがんばってるのに無駄じゃん!意味ないじゃん!ヽ(`Д´。)ノ
このスパイラルのどこに希望があるってんだバカァー!ヽ(`Д´。)ノ
ありがち、ありがち。
でも、だからって投げ出しちゃいかんのよ。
やけっぱちにならず、どこに脱出口があるか考えてみる。
自分一人で生きているワケじゃない限り、
周囲の評価からは絶対に逃れられない。
よって、
普段の姿は、本性を隠した 偽りの姿。
これを、まずは受け入れるしかない。不本意でも受け入れる。
欺いてる事を、偽っている事を、ちゃんと認める。自分の中で。
その上で、こう考える。
そもそも偽る理由は何だっけ?
…そうだ、大事な人を傷つけたくないからだった。
では、そう思った存在は誰?
「偽る」という事を決定した存在は誰?
そう!m9(;`Д´)
どれだけ偽っていても、
偽ろうと決めた意志そのものは、
決して偽りではナイ!!
ここが大事なんだよ。
「本性」でも「普段」でもない第三の姿。
これこそが、その人の 真の姿 。
と、ぼくは思う。
じゃあ、それが真の姿なら、本性は何の姿だよ!ヽ(`Д´)ノ
ま、当然、こういう疑問がわくだろうけど、
これについては最初に言った。
「たかが本性」なんだよ。(・∈・)
本性なんてもんに、人間性は宿ってない。
こと人間性の評価において本性なんて重要じゃないの。
強いていうなら「素の姿」。その程度のモノだ。
垣間見える本性が 素の姿。
普段はそれを隠した 偽りの姿。
隠そうと決めた自分が 真の姿。
こういう整理でよろしいんじゃないかと。
でもね、思うだけじゃだめなんよ。
周囲に、そして自分に、行動で示してこその真価だ。
「こうありたい」という意志をどれだけ行動に反映できるか。
つまり真の姿をどれだけ素の姿に反映し偽りの姿でいられるか。
とりもなおさず
本物と見分けがつかないくらい、
どこまで周囲を偽れるか
って事なんじゃないのかなって。
「偽」とは人の為と書く。愛ゆえの迫真。
凡庸に生まれついた我々が、
人間としての真価を試されるのは、
かなしいけれど、そこしかない。
それもまた、ザ・人間。