引っ越しました

2014年09月09日

障害は個性?

「障害は個性」

このフレーズ、わりとよく耳にするのだが、
ぼくは個人的に、あまり好ましく思ってない。
意味としては必ずしも間違いとは言えないが、
フレーズとしてのニュアンス、使われ方が、
どうもシックリこないというか釈然としないというか…

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違和感の理由を考えてみた。

この言葉を作った人、もしくは使う人の真意は何だろう。
これによって、何を訴えているのか。何を期待しているのか。
仮に「障害は個性」を、そのまんま受け入れるとして
「了解。で? だから何?」という部分だ。

まず、この場合の「個性」という言葉の意味。
これは、ポジティブなのか、ネガティブなのか。
例えば「個性を伸ばす」とか「個性を発揮する」なんて用法は、
明らかにポジティブな意味合いの “個性” を差している。

では「障害は個性」を額面通り、これに当てはめてみよう。
「障害を伸ばす」「障害を発揮する」明らかにおかしい。

つまり「障害は個性」というフレーズにおける “個性” とは
ポジティブな意味合いの個性では ナイ という事ができる。

となると…

例えば「おデブちゃん」とか「おチビちゃん」とか、
そういった世間一般のネガティブな個性=欠点を差している。
とどのつまり、みもふたもない言い方をしてしまうと、
「障害は、健常者における欠点と同じなんだよ」って事になる。

つまりは…

「障害者は健常者と同じ、だから同じように扱え」的なね。例の。
結局、こういうありがちな大雑把な思想って事なんだろう。


ウン、やっぱダメだわ。賛同できない。(確・_・信)


ハッキリ言っておく。

障 害 は ハ ン デ だ。個性うんぬん以前に。

どうごまかしても、どうとりつくろっても、
「障害者の生きにくさ」は歴然と目の前にある事実だ。
本人はもちろん、周囲の人の目の前にも存在している。
なぜ、受け入れる他ない事実から目を逸らす?

件のフレーズは、その現実を「個性」なんていう曖昧な、
口当たりのいい言葉で、隠蔽しているとしか思えない。
目の前のハンデをナイものとして扱えと言ってる。
障害者 なんて存在は、そもそもイナイって言ってる。

無理でしょ、これは。
アルって。イルって。現実逃避がすぎるって。


福祉の理念に「ノーマライゼーション」というのがある。
もともとは「障害者も健常者と同等の生活を送れるよう支えるべき」
という、わりと現実に即したまともな考えだったが、いつからか、
「そもそも障害者と健常者は区別すべきではない。同等に扱うべき!」
というような、大雑把な拡大解釈をされはじめてしまった。

「障害は個性」というフレーズが意味するものは、
後者の意味でのノーマライゼーションに近いと思う。
区別しないからってハンデが消えてなくなるわけじゃない。
ハンデがある以上、障害者は障害者である事に変わりない。

本人も周囲も意識して当たり前だ、こんなもん。
むしろ、当然の事として認識しておくべきだ。
それが特別な事じゃなくなるまでシッカリと。
それこそがノーマライゼーションでしょ?

こうした当たり前の現実を、見て見ぬふりをする事が、
“善き事” とされるのは、ありがちなトラップだと思う。

例えば、こんな思考パターン。

「そうか。障害者は健常者と一緒なんだ」
       ↓
「そうだよな。障害者も一個の人間だもんな」
       ↓
「人には、それぞれの生活・人生がある」
       ↓
「無闇に干渉、介入するべきじゃないよね」
       ↓
「よし、変に注目したりせず、そっとしておこう」
       ↓
「独善的に手を貸そうなんて思い上がりだよな」


ハイ。(=_=;) こうして、また、ご都合主義的に、
無 関 心 の 正 当 化 が、補強されちゃうワケだ。
障害者を支援 “しなくていい” 理由。しなくても “良心が傷まない” 所以。
大雑把になればなるほど一人頭の意識は薄れる。体のいいブラインド。
そういうもんなのにね。なぜわざわざ助長するのか…


そもそも

健常者と障害者という だけ の関わりなんてものはない。
あるのは、いつだって 人と人との関わり だ。
個性というなら障害 以外 の個性を見るべきだ。
そこにこそ、その人らしさが宿っているのだから。

大事なのは、これでしょ。

posted by さくらい | 日常 | 更新情報をチェックする