これについて思う。
障害−−
いったい「誰」の「何」が害されてるのか。
「障害」とは一般に機能障害の略だ。つまり、
「その人自身」の「身体機能」が害されている。
にも関わらず、
「世間様」の「円滑な社会生活」が害されている。
その害する者を障害者と呼ぶ、などと本気で認識している
不届きなお馬鹿さんがいる。実際いる。呆れる。
だから、一部の神経質な人達が「『害』の字は差別だ!」
などと騒ぎ出し「障碍」と表記したりするのだろう。
これもブラインド(無関心の正当化)になると思うんだけどね…
機能障害−−
機能とは言わば「手段」だ。
例えば、ぼくの手はありがたい事に今んとこ正常に動く。
「よし動く!オッケーイ」終了−−なワケがない。
機能するのなら、もちろん使う。ありがたく。
絵を描きたい。文章を書きたい。ボールを投げたい。
花に水をやりたい。料理を作りたい。人と握手したい。
これらの「目的」を行使するための、
「手段」こそが機能なんだ。
そして、この目的を行使する事こそが、
その人らしく生きるって事なんだと思う。
よって
こう言い換えられる。
「その人自身」の「その人らしい生き方」が害されている。
機能で行使できないなら支援でカバー。支援こそが手段となる。
支援を受けたからといって、目的が損なわれるわけじゃない。
どんな手段でもいい。その人らしい目的を行使できるのなら。
その人がその人らしく生きられるのなら、それは…
何の障害もない。
つまり、
例え機能障害があったとしても、
そもそも実質的には"障害者"ではないのだ。
これが、あるべき姿、めざすべき形ではないかと思う。
そう考えると「害」の字を「碍」の字に変える…
どうだろう…ずいぶん小さな事のような気がする。
どっちでもいいよ、そんなのって気がする。
傷つくという人がいるのなら、それもいいと思うが、
だからって本質的な解決には繋がらないと思う。
ネガティブな要素を排しただけではポジティブな要素にはなりえない。
むしろ、分かりにくくなる。排他的な感じも受ける。
実際、自分らしく生きている"機能障害者"さんは、
こんな事、まったく意に介してないように見える。
いつもニコニコして幸せそうだ。
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